
本当の意味での学者さんや芸術家の反対の言葉として
ディレッタント(dilettante)があるとすれば
それこそわたしはディレッタントなわけで
数寄者と言えば優雅だけど
ほんとうのところは中途半端だってことだと思う
わたしが何かを作ったり
作り直したりするのはただただ自分のため
自分の身の回りのものがとにかく自分にとって
かわいかったり、かっこよかったり
そして何より
使いやすかったりすれば良いなって思ってるだけ
それだけの事がきっかけで
なんだかんだやってみているだけ
白黒写真の現像を初めたきっかけもただ
「自分で撮ったつもりになってた写真って
写真屋さんから出来て帰って来た写真と違う」
って思って、そのズレを埋めてみたいって思っただけの話
自分の持ち物にぴったりのケースを造りたいと思って
革細工を始めたり
もちろん自分にとって使いやすくかっこよくあってほしいので
楽器や バイクに 手を入れる
自分にとって良い感じの場処がほしくて
小屋も建てる
家具もつくる
何より
音楽的素養も 才能も 皆無なのに
ただただ音楽が好きで永年楽器を嗜みつづけたり
つまりもともと
発表しようとか 人様に見てもらおうというような事は
気持としてあんまり無い
いやだいたい なんとなくなシロモノばかり
((((;゚Д゚)))))))..............
でもまあ 日記みたいな羅列をweb上に日常的に載せて行くけれど
どちらかといえばこれは一種の強迫神経症のなせる業
nuducaは
ユイスマンスの「さかしま」の主人公
つまりは
秘かな愉しみに過ぎない
思想の無い現代芸術は無いと思う
そう考えれば
たとえ無意識下にある芸術家だとしても
その作品には思想がある
そのような見方をした場合
芸術家とディレッタントの一番大きな違いは
自分の創った「もの」が社会的な意義を持っていると考えれるか
考えられないか、なんじゃないかな、とも思う
それは
出来上がった「もの」の差では無く
世に問うことに対しての意識の差で
そうゆう気持の事で
わたしは絶対に「ディレッタント」だ
わたしは
わたしの好きな芸術家たちの被造物を敬愛してやまないので
たとえば音楽はモーリス・ラヴェルだったり
絵だったらオディロン・ルドンだったりするわけだけど
そんな素敵なものたちの事を考えたら
自分の何かなんか別になんでもない
「これはわたしのつくった『もの』です」って言って
皆様に観ていただくことほど
オコガマシイことはない
なのに
展覧会とは
((((;゚Д゚)))))))..............
とはいえ色々あることはあるので
考えた
そうだ
一人のディレッタントの生活を覗き見るような
そんな
展覧会にしよう
「うひゃあ やってしまいましたね?
そんな日常ですか?」と
面白がってもらえればそれで良い
『過剰』って事ではたしかに『過剰』だし
ほとんど『過剰』をトオリコシテ
『混沌』だからな
それにnuducaなんてなんだかよく解らない
我ながらそこにある人格の全体像はまったく曖昧だ
半分架空の人格なんじゃないかとさえ思う
だから
わたしがまたnuducaという「謎」を思い描いて
その断片からその人物のありようを描写するという
そのような考えで
いろいろと組み合わせて行くのも楽しそう
お茶室にお道具の取り合わせをする
そのために独り蔵にこもって
あれやこれや選び出す
そのような楽しさで準備をする
まあ そのような
混沌とした
展覧会にしてみようと思う
思います
宜しくです
「サテュリコン」です
ペトロニウス→フェデリコ・フェリーニ→
nuduca
my room labyrinth 於「点滴堂」
posted by nuduca at 20:04|
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